いつかのあなたへ

 人生に忍耐はつきものだ、と言う人がいる。

 それが万人にとっての事実かどうかはさておいて、あなたの人生はそれなりに忍耐に満ち溢れていたのではないか、と思うのだ。

  あなたの忍耐は、きっとさして自覚のないところから始まった。

 一般的な幼児に比べて、あなたの言語的な発達は早い方だった。
 三歳になる前には因果や時制、仮定といった概念を理解し、未来の事を仮定して話していたように思う。
 「物分かりは良いが、屁理屈をこねるのも達者な子」。それが、幼いあなたに対する大人たちの評価だった筈だ。

 とはいえ、あなたはおおむね「良い子」だった。それも、大人の言いつけを守ることそのものに固執するのではなく、「大人の言い分を聞いて、それがもっともであると納得すれば大人しく従う」というタイプの。(だから、そう、納得がいかなければいくらでも反論して、屁理屈をこねて、大人を困らせたのだろう)
 つまり、あなたの最初の「忍耐」は、良い子でいなきゃいけないというプレッシャーとは無縁で――或いは、もっと悪いことに――自主的に、頭では納得して、自分の感情、自分のやりたい事を我慢する、という類のものだった。

 一方で、そうやって率先して抑圧される感情に対して、あなたは少し鈍感だったのかもしれない。
 癇癪を起こすことはしょっちゅうだったが、その時にどうしてそうなってしまうのか、自分が何を感じているのか、まるで理解できずに、あなたは余計に苛立った。これは、先の忍耐とはまた別種の、耐えなければいけない事だった。

 

 やがて、あなたはもう一つの忍耐を強いられるようになる。

 およそ十年にわたり、代わる代わる、様々な人から受ける嫌がらせに、あなたは耐えなければならなかった。

 誤解を恐れずに言えば、それはきっと賞賛にも値する事なのだ。
 確かに、あなたはただ一人で耐えたわけではない。そこには幾人かの大人の協力があった。けれど、あなたはその環境そのものから助け出されることはなく、それでもその命を守り切った。
 未だ幼いあなたは、自らに向けられるそれを「下らない、低俗な行い」と呼び、自分の境遇を「理不尽」だと言いながらも、それに耐えることこそをプライドだと信じていた。
 相手が大人に叱られ、或いは心にもないかもしれない謝罪を向ける時、あなたはそれを許した。許すことこそが、相手と自分を隔てる高貴な行いだと信じていた。

 それらはきっと幼稚な意地で、穴だらけの(おなじみの)屁理屈で、どうしようもない強がりだったかもしれない。
 けれど、今、私はあなたに言おう。それは正しく、誇り高い防衛戦であった、と。
 折れた骨が不格好なまま繋がってしまうような、多くの兵士が抱えるPTSDのような、どうしようもない傷は、確かに残った。それは今日まで、あなたを苦しめてきた。傷痕がうずく日は、きっとこの先もあるだろう。
 それでもあなたは、諦めなかった。その場に蹲ることを良しとしなかった。立ち続けること、前に進むこと、それが誇りだと信じていた。美意識がそうしろと囁いていた。それを、自意識過剰だと人が笑おうとも、決して手放しはしなかった。

 だから、今、私はあなたに言おう。おめでとう、あなたは勝ったのだ、と。

 あなたの忍耐は、決して無駄ではなかった。
 あなたの信じたものは、決して幻ではなかった。
 あなたの守ったものは、とても尊いものだ。
 あなたの戦いは、全て報われる。
 もはや、打ち砕かれた自尊心の上で、ただの虚勢と化したプライドを杖に耐える必要はない。あなたの誇りは無事だ。あなたの美意識は無事だ。あなたが守ってくれたものは、今、すべて、私が持っている。

 

 ……いつかのあなたへ。

 今、何よりもその忍耐を労おう。

 そして、これからも、過去へ遡っても、今この瞬間も、あなたを愛していよう。

 拗ねた弱音も、歪んだ強がりも全て、何もかも全て、いつか私が死ぬ日まで。