誇りとか自尊心とか高貴とか

 前回のポエムめいた何かの中で、誇りとか美意識とか、そんな事を散々言った。

 けれど一体それがなんであるのか、自信をもって説明することは難しい。

 思えば、もう十年以上、判然としないそれを追い求めて生きているような気がする。

 

 幼稚園に入ってから小学校を卒業するまで散々(そして中学に入っても、いくらか)嫌がらせを受け続けた私は、「イジメなど心の貧しい者のする事よ」という思いに縋りつくようにしてそれに耐えてきた。
 なるべく同じ土俵に立たないようにする事、口先だけで何度謝られてもその度に許すと言ってやる事、そういった行いが相手よりも人間的に立派な――つまり、誇り高く、高貴な――行いであると信じていた。
 或いはそういう高飛車な態度が連中を刺激したが故に嫌がらせが止まなかったのかもしれないが、とにかく毅然とした態度を維持するように努めていたわけである。

 とはいえ、世のセレブやまさしく高貴な血に生まれた人とは違って、私は小市民の子であった。
 いくら誇り高いフリをしようと幼い私はハートフルボッコ状態となり、母が育んでくれようとした自尊心はバッキバキになり、高飛車な見下し根性と粗末なプライドだけが残ってしまった、のだと思う。
(余談。母は虐待サバイバーで、自身の経験から子供を「1人の人間」として尊重する事を何より念頭において育ててくれていた)

 私に嫌がらせをする者が居なくなり(みんな私なんかに関心を持たなくなった、みたいな感じであった)、ふと自分の胸に手を当ててみると、そこは自己否定・自己卑下・回避癖・人間不信etcで満ち溢れてしまっていた。
 無駄にプライドが高いのに自己評価が低いから何かに成功しても人に褒められても素直に喜ぶことはできず、何か嬉しいことがあっても「そんなことで浮かれちゃって」とすかさず囁く自分が居て、対人関係においてはとにかく人と関わるのが怖かったし、仲良くしてくれる人に対しても常に「私なんかに気を使って話しかけてくれてるんだな」「この人は私の事を勘違いしてるに違いない、いつか勝手に失望して私を傷つけて去っていくんだ」という気持ちを抱き、自分のすべてにダメ出しと否定をする。

 常に心のどこかで「私なんて、誰もかれもに失望されて見捨てられて、何もかも失って、生活保護を水際で拒否されて、住む所もなく闇金にでも縋りついて、よくない店に落とされて薬漬けにでもなって、そうして野垂れ死ぬのがお似合いなんだ。早くそうなればいいのに」と思っていた。

 もちろん、そんな気分でいるのは辛かった。どうにかしたいと思って、色んな心理の本や自己啓発書を読んでみたり、セミナーに行ってみたり、スピリチュアルに頼ってみたりしたが、どうにもならなかった。
 ただなんとなく「自分がこんな状態なのは、健全な自尊心が足りていないんだ」と思っていたけれど、どうやったらそれが手に入るのか、あるいは育めるのか、全く分からなかった。
 そうやって、誇りとか自尊心とか高貴とか、よく分からないけれど追い求めていたのは、たぶん15年かそれに少し足りないくらい。

 

 さて今は、そうした自己否定からは概ね脱出できたのだが(どうやって脱出したかはまた別の機会に……因みに、身も蓋もないような話である)、私はなおそれらを求めている。
 前提としての自己否定がなくなったから、あとは時間や経験を重ねていけば自尊心は養えると感じているものの、正体は未だに判然としない。

 ただ、ある種の渇望のように「誇り高くありたい」「高貴な人間になりたい」という思いが、私の中に渦巻いている。
 現実問題、私は無職で、うつ病は尾を引き、障害者年金も受け取っていて、年内にも生活保護を申請せねばならないような立場だが、それでも「いつかは与える側の人間になりたい」という願いが、私の中に深く根を下ろしているのだ。

 前回の記事も、途中まではアナログで下書きをしていたのだが、誇りだの美意識だのという言葉は打ち込み始めてから自然に出て来たものだった。
 書こうと思ったきっかけはイジメられた経験へのケアが不十分だと感じる出来事があったからなのだが、これ以上どう自分に声をかけてやればいいか、実は分かっていなかった。
 でも、きっと、あれが正解なのだと思う。

 私という人間は、どういうわけか、誇りとか自尊心とか高貴とか、そういうものに焦がれる定めであるらしい。