今年の目標。
度々触れているが、この場合の「今年」は「2019年の秋分から2020年の秋分前日」までの事である。
ともあれ、前回の記事で触れた『腹筋を割る』という事以外にも、多角的な目標を立てている。
一言で言えば『自分にとっての良い〈王〉となる』というのが、今年の目標だ。
と聞いても、他人からすればまったく意味の分からない目標であろう。
説明的に言えば『自分にとって良いセルフイメージを持ち、常に自分を(おおむねプラスの方向に)評価するとともに、主体性を発揮し、そのセルフイメージへと近づく行動をとっていく』という、平凡なものだ。
つまり、この場合の〈王〉とは、自分にとって理想的な概念につけられた便宜上の名称でしかない。細かく見ていくと「王……とは……?」みたいになるが、ともかく『自分自身が自分にとっての絶対者になる』という意味では、〈王〉という単語もそこまで的外れではないだろう、と思っている。
王とは。
強く、美しく、賢く、泥臭く、高貴で、武骨で、優美で、一途で、気まぐれで、愛情深く、無関心で、大胆で、慎重で、不敵で、無邪気で、正直で、我儘で、容赦なく、慈悲深く……およそ、私の中で生じるであろう全てが統合されたものでもある。
当然、私が求めてやまない誇りとか高貴とか自尊心とか美意識とか、そういったものにも溢れている。
私がかつて憧れ、しかし自己不信や自己卑下や、そこから生じる無気力の内に置き去りにしてきた全てを持っている。
つまり、この理想的なイメージに自分を近づけるという行いは、私が持っていた筈のものを取り戻していく事だとも言える……そんな風に思っている。
王には王に相応しい肉体が必要だ。
前述の『腹筋を割る』というのもその一つで、つまり力強く生命力に溢れた美しい体型こそ相応しい。これ自体、かなり昔から密かに憧れていたものだ。
肌、髪、爪と言った「自然に生じる肉体的な要素」も、常に手入れされて健康美を発散するような状態である事が望ましい。
また、体型とも関連するが堂々たる美しい姿勢、動作、物腰というのも、当然の振る舞いである。
……これらも全て、ずっと憧れていたものだ。
王と言うからには教養も問われる。
身に着けたい知識は山とあるが、少なくとも都度必要になるようなことはしっかりと学んでいかなければならない。……例えば、このブログのHTMLやCSSについても、全てコピペで済ませるのではなく身に着けていくという姿勢を大切にしたい。
また、趣味で海外の情報を漁れたらいいのに、と思う事が多々あったので、英語力は身に着けたい。一つの目安として、何点を目指すという事もないが一度TOEICを受けておきたいとも思っている。
これらも、ずーっとやりたいと思いながら放置されていた事だ。
そして何より、その精神性がキモとなる。
本来であれば、王なるものは多大な責務を負い、それに耐える精神を持ち合わせている。それは生まれた時から入念に施された教育と訓練、管理された環境の結果だ。一般人がおいそれと身に着けられるものではない。
しかし、一般人は一般人なりに、自らに降りかかる責務に対処し、そのストレスに耐える精神を養うべきである。本来なら。
この点において私は出遅れていると言えるが、とりあえず、まずは徹底して自分を肯定するところから手を付けようと思っている。
日々、自分の行いと心のありようを振り返り、良い点は存分に褒め、至らぬ点についても寛大な王が許すがごとく「それで良い」と言ってやる。召使に褒美を与えるがごとく、日々の生活の雑務をこなす事さえ「よくやった」と言ってやる。
また、幼い王が手厚い教育を受けるごとく、これら全ての試みを、何度でも試み直す。
中断しても、失敗しても、怠惰になっても、いつでもまたこの場所に戻ってきて、決してあきらめずに取り組む。王は生まれながらにして王なのではなく、王となるべく育てられ、そのように試み続けるから王なのだ。
これらは『今年の目標』ではあるが、別の言い方をすれば『こうした習慣を身に着けていく事』が目標である、とも言えるかもしれない。
いずれにせよ、ほんの一年前まで自己否定にまみれていて、未だに抗うつ剤を服薬している私にとっては、「戦い」とも言えるような課題である、と感じている。
ブログタイトルを「戦記」と改めたのは、このためだ。
一方で、自身の行いを評価し、何度でも試みようという方法そのものは「認知行動療法」とも共通する部分があり、そういう意味では勝ち目も利益もある戦いである、と思っている。
今は書くことが渋滞していて、生活との兼ね合いもイレギュラーな部分が多いが、やがてこのブログはそんな王の手記としての側面も持っていく……と、いいなぁ。