生きづらさ、とはなにか
生きづらい、という言葉が安売りされるようになって久しい。
別に悪い事ではない。
言葉にならないしんどさ、何が辛いと具体的に特定できない気持ちに「生きづらさ」という言葉を当てることで救われた人は多くいるだろう。
原因がはっきりしていても、例えば不定愁訴が激しくて生きづらい、なんて表現をすることもできる。
ただ、私個人のことを言えば、「生きているのが辛い」と思ったことはあっても、「生きづらい」と思ったことはないような気がする。
未就学時代から嫌がらせを受ける事が多々あったとか、嫌がらせを受けなくなっても人間不信や自己嫌悪に付きまとわれてたとか、適応障害めいて大学を中退したとか、いつまでも仕事に慣れる事ができないとか、鬱病になったとか、そもそもアスペルガーとか注意欠損だとか。
並べてみると「生きるのに苦労してんな」とは思うし、幼いころに周りの大人たちから「生きづらい子」という旨の何かを言われたことがあるような、そうでもないような。
或いは、自分自身でも軽口めいて、若しくは「生きづらい世の中だ」という文脈で、そのフレーズを使ったことはあったかもしれない。
ただ、主体としての自分が「生きづらい」という実感があるかと言えば、現在は全くないし、これまでもあったかどうかは怪しい。
きっと、「生きづらい」ことと「生きていることが辛い」ことは、明確に違う。
生きていることが辛いと言う時、それは呼吸をするのも億劫な倦怠感に支配されていて、自意識は抑うつに覆いつくされ、起きている限り寂寥と正体のない不安や恐怖が一緒に押し寄せて、時間の流れの中でその状態に留め置かれているような気がして、未来への希望がないとか将来にわたってこの状態が続くように思うというよりは、ただこの今の辛さが永遠に引き延ばされているような、そういう状態であるのではないかと思う。
では、生きづらいと言うのは、どういう時だろう。
それは多分、何かやるべきこととか、順ずるべき規範があって、それに対して自分が不器用だとか、不十分だとか、周りや本質的に自分の外にあるような基準と比較して劣っているように感じるとか。或いは思うようにならないとか、欲しいものが手に入らないとか、他人とのつながりの中でどうにも居心地が悪いとか、世の中に怖いものが多すぎるとか、時間に振り回される事しかできないとか、愛されていない気がするとか、貧しさに対する不安に取りつかれてしまうとか、そういった状況なのではないだろうか。
……などと、物書きになりたい私は想像力を働かせる。
こうして並べてみると、「生きていることが辛い」というのは、どこまでも主体的だ。それはただ自分が自分が辛いという状況であって、外部の環境がどうであろうと関係ないし、人と比べるまでもなく自分は劣っているという主観的な認識があるし、例えどんな優れた技能を持っていることが証明されたってそれを聞き入れる気は起きない。限りなく利己的で、自分の中でばかり完結する辛さだ。
他方、「生きづらい」というのは、社会や他人、或いは数値や言葉にできるモノや概念と自己の関係性において生じているように思う。仮にその感覚を生じているものが前者と同じく自己認識の中にあるのだとしても、生きづらさを見出す先は常に外部と自分との関係性なのではなかろうか。いつだって被害者や敗者になってしまう、だから生きづらい、そういう感覚だ。
もしこの発想がある程度の「正しさ」を持っているのなら、冒頭のように言葉が急速に普及した事にもある程度の納得がいく。
インターネット、と言うよりはネットを介したコミュニティや情報の拡大によって、人と外部の関係性は増え続けている。当然、絶対数が増えれば辛さを感じる関係性は増えていく。
加えて、そういった「生きづらさ」を感じている人同士のつながりも増える。多くのコミュニティがそうであるように、不安を解消するつながりもあれば増幅するつながりもあるから、やはり絶対数が増えれば「生きづらい人が集まり、互いの生きづらさを増幅する集団」というものも増えてしまう。
もしそうであるならば、昨今の生きづらさとは何か、という問いに対する答えは、ある種の現代病である、ということにもなり得る。
一方で――ただ「生きていることが辛い」ばかりだった私はつまり、根本的に自己中心なんだろう。たぶん。
或いはそれこそが、ずっと握りしめていた、殆ど壊れた誇りや美意識の結果なのかもしれないが。