「やりたいこと」には「気付けない」のだ、という話

 「やりたいこと」をやって生きていこう。

 「やりたいこと」を仕事にしよう。

 「やりたいこと」を――

 

 世間はそう言うけれど、「やりたいこと」が分からないって人が大半だろう。

 翻って世間の言うことには、

 「やりたいこと」を探そう。

 「やりたいこと」を見つけるには――

 「やりたいこと」のヒントは――

 

 自分探しのセミナー、書籍、有料のネットサロン、etcetc……

 いろんなものが「やりたいこと」ってお題目を掲げて囲ってくるけど、子供の頃に好きだったことや褒められたことを思い出しても、欲しいものを書き出しても、人に聞いてみても、 【気付く時が来るまでそれには気付けない】 のではないかと思った。

 

 欲しいものリストとか、したいことリストとか、そういうものを何度作ったか分からない。

 それらは大抵「見返すこと」が大切だとされていて、けれど脳の特性や鬱傾向で飽きっぽく、忘れやすく、行動を起こしづらい私に、毎日――或いは毎週とか――リストを読み返す習慣を付けることは不可能だった。
 しまいにはどこに書いたかを忘れてしまって、古いメモと共に物入れの置くかゴミ箱の中にでも消えていくのがお決まりのパターンだ。

 そのせいなのか、毎回似たような内容になるリストの中に叶った事はなかったような気がするし、そこから御大層な「本当の自分」とやらが見えてくることはなかった。

  「やりたいこと」は一つとは限らないにせよ、その一面に私が気付いたのはある種の偶然とも言える。
 或いは、それを問い続けたからようやく気付いたのだ、という意味なら必然だ。
 けれど何かきっかけがあった訳でもないから、やっぱり偶然と言う方がしっくり来る。

 

 私は基本的に家事全般が嫌いだ。
 特に炊事は心底憎らしいくらいで、他の洗濯や掃除はそれと比べればまだマシと言えるが、それでもひっくるめて嫌いなものは嫌いだ。

 この世で最も嫌なのは、「自分の世話をやかねばならないこと」だと言っても良い。
 自分の食事を用意し、食べさせ、片付けてやり、着替えさせ、風呂に入れ、洗濯をしてやり、身の回りを片付け……日々を送らせてやる為の営みが全てめんどくさい。
 たぶん、誰かの為にするのも嫌いだろう。独身のまま生きていくつもりではあるが、専業主婦とかちょっと考えられない。
 自分の世話をするにも『これは私の仕事じゃない』という気持ちになるから、もしも私が古い時代の男に産まれていたら、さぞ嫌な旦那になったに違いない。

 ともあれ、日々そんなことを頭の片隅に思って暮らしながら、或いは以前、心を擦り減らして働きながら、『では、何がしたいのか?』という問いかけは繰り返してきた。

 あの生き物が飼いたい。乗馬をやってみたい。英語の勉強がしたい。プログラミングの勉強をして、自分が使いたいアプリケーションを作れるようになりたい。書斎兼飼育部屋のある家に住みたい。腹筋を割りたい。焼きたてのパンが食べたい。お手伝いさんを雇いたい。読みたい小説やマンガ、見たいアニメや映画、やりたいゲームなんかは沢山ある。あの場所に旅行してみたい。こういう『やりたい!』と思った事をすぐに実行できるお金と時間の余裕が欲しい――

 ざっくり言って、娯楽以外は、勉強と創作だけして生きていきたい!

 

 ……繰り返してきたのだ。

 自分探しのワークでは毎回似たようなものを繰り返し作るし、自分に繰り返し問いかけて思いつくのは似たような答えの繰り返しだし、珍しく物欲リストを繰り返し眺めることがあっても何もわからないし。

 そんな事を何年も繰り返してきた。
 つい先日、なんのきっかけもなく、いつものように繰り返した末にふっとその事に気付くまでは。

 

 つまり私は、『勉強と創作だけして生きていきたい』と繰り返し書き記し、時には唱えながら、それが「やりたいこと」であるのだと気づくまでに、数年を要した。

 否、幼いころから勉強と創作が好きだったことを考えれば、それを「やりたいこと」だと自覚するまでに十年、二十年を費やした、と言っても過言ではない。

 

 単に私が超弩級のマヌケである、というだけなら、それは別に構わない。

 けれどもしかしたら、「やりたいこと」が分からない大半の人たちの、そのまた大半は、同じように「いつも呟いているはずのやりたいこと」に気付けずにいるだけなのかもしれない。