文章はかけてもブログが書けないという問題

 以前、自分のブログ記事の粗製乱造ぶりに嫌気がさす、という記事を書いた。

 その後アレルギーと思しき症状や体力の消耗、精神的ダメージといった要因が重なってうつ症状をぶり返し、1ヶ月のブログ休止、1記事だけ生存報告をして、生活保護に合わせてぼちぼち再始動するまで更に2ヶ月ほど休止と、乱造も何もない状態が続いた。

 そして、思うに――私は「人に評価してもらう」事を少しでも考えると、途端に文章が書けなくなるのではないか、という仮説に思い至った。

 

  私は、文章を書くことが大好きだ。

 小学校の頃から作文が好きで、出来はともかく書くことが楽しくて楽しくて、特に低学年の頃など、何枚も追加の原稿用紙をもらって書き続ける、なんてことをしていた。
 感想文は苦手だったが、それでも書けないという同級生よりはよっぽど書けたと思う――なんとかひり出したような夏休みの宿題である読書感想文が、市だか何だかのコンクールに入選してしまった事もあった。

 詩を書くのも好きだし、物語を書くのも好きだし、自分の気持ちを綴るのも大好きだった。

 大人たちは私の書いた色んな文章を褒めてくれたし、褒められることは嬉しかったけれど、何よりも書きたくて書いていた。

 自分の心に浮かぶことや、まるで異世界と繋がったかのように次々湧き出てくるフィクションなどを書き綴って外に出さないと窒息してしまいそうだと思っていたし、いわゆる「脳汁が出る」ような心地で筆を進める事に、純粋に夢中になってもいた。

 

 さて、だと言うのに、ブログ記事を書こうと思うと億劫な事も多い。

 書きたいネタのストックは山ほど――少なくともA5用紙にびっしりとは――あるのに、それを練って書くよりも、単に更新ノルマを埋めるための記事を、なんとか書くような具合になるのは何故か。

 

 ……人に見せる事を意識しすぎなんじゃないかなぁ、と思った。

 フィクションもそうだ。作家になりたくて、じゃあその為に努力をしようということで色々とやり始めたら、すっかり書くのが億劫になってしまって、もう10年くらいが経つ。

 年に1本くらいは短編・掌編のようなものを書くが、どうにも不格好で納得がいかなくて嫌になる。

 

 考えてみれば、例え私の文章を人に評価してもらう必要があったとしても、それは私の為であって(仮に文章を書いてお金を貰うのだとして、それは私にお金が必要だから、即ち私の為に評価してもらう必要がある、ということだ)、書き始める最初から「人の為」という目的ではない。

 無論、書いた文章を見直して「より読みやすいように」と考えて整える事もあるが、それは私が私自身の納得の為に文章を美しくしたいと望んで行う工程であって、読んでくれる誰かの為に行う作業ではない。

 ならば、ブログだってそのようにあって良いのではないだろうか。

 

 結局、私はどこまでも利己的に、私の為に私を満たすだけの存在でありたいと願い、しかしそれを全てに適用する事が出来ずにいる。
 この通り文章に関してもそうで、「私の為に書く」事を突き詰める事が出来ずにいる、という事実に気付くまでに数年を要してしまった。

 が、気づけたので、これからそうしていけばいい。

 私は私の為に書き殴って、吐き散らして、気が向いたら見直して整えたり、或いは全く別の文章に書き直してみたり、何度も同じことを書いたり、正反対のことを書いたり、そうやって好きに振る舞えばよい。

 

 或いはその先に、私が生きていくための手掛かりが見つかることを祈って。